
2024年まで横浜DeNAベイスターズで、俊足を武器に活躍した村川凪さん。現在は株式会社Na runnerの代表として横須賀エリアを中心に野球教室を運営し、新たなフィールドを駆け抜けています。
一見、異色に見える元アスリートと電気工事会社代表のふたり。しかしその根底には「横須賀」という地縁を超えた、深い信頼と共通の哲学がありました。
プロフィール

村川 凪(むらかわ なぎ)
株式会社Na runner代表
小学生を対象とした野球教室の開講を中心に活動している。
2021年~2024年まで、横須賀スタジアムを本拠地とする横浜DeNAベイスターズのファームチームに所属。

庵﨑 栄(いおざき さかえ)
株式会社サンエー 代表取締役
電気工事の現場職人としてキャリアをスタートさせ、20代で太陽光発電事業を柱に独立。
神奈川県横須賀市出身であり、生粋の横浜DeNAベイスターズファン。
現役時代の出会いから、経営の師弟関係へ

現役時代の村川さん
―まず、お二人の出会いについて教えてください。
庵﨑:
2022年に知人から「頑張っている現役選手がいるから応援してあげてよ」と紹介されたのが最初です。
プロのアスリートと深くお付き合いするのは初めての経験で、初めの頃は「自分に何ができるだろう」と模索していました。そこで考えたのは、彼が何か困っているとき、いつでも相談できる存在でいることです。そのために頻繁に会って会話するよう心がけていました。
2024年の春季キャンプで彼が一軍スタートを切ったときは、自分のことのように嬉しかったのを覚えています。
村川:
最初にお会いした時は、これほど熱い野球ファン、そして経営者の方とお会いするのが初めてで、どう接していいか戸惑いもありました。でもお会いするたびに親身に話を聞いてくださったりアドバイスをいただいたことで、次第に信頼できる方だなという安心感に変わっていきました。
現役時代の3年間、庵﨑さんが信頼できる方々との縁を繋いでくださったおかげで今の僕がありますし、当時は応援してくれる方々のために活躍したいという思いが、大きな原動力になっていました。
庵﨑:
引退後、彼が自分で会社をやると聞いたとき、私の30年の経営経験を惜しみなく伝えようと決めました。今は一企業人としての彼を応援していて、会えばいつもマーケティングや経営判断の考え方について議論しています。
挫折を越え、横須賀で「教える」喜びを知る

屋外野球教室の様子(中央:村川さん)
―村川さんはなぜセカンドキャリアの舞台に「横須賀での野球教室」を選んだのでしょうか?
村川:
理由は大きく二つあります。一つは3年間プレーした横須賀なら僕を知ってくれている方々がいて、集客の面でも力になっていただけるのではないかと考えたこと。もう一つは庵﨑さんをはじめとした信頼できる方々の存在です。地元である広島に帰ることも視野に入れて今後のことを父に相談した時、「横須賀に頼れる人がたくさんいるなら、その人たちを頼って恩を返せるように仕事をしたらどうだ?」と言ってくれたことが決定的でした。
庵﨑:
引退後は広島に帰ったり、どこかの会社に就職したりするものだと思っていたので、大船の喫茶店で「会社をやりたい」と聞いた時は本当に嬉しかったですし、凄い人だなと思いました。誠実で一生懸命な彼を見てきたからこそ、僕の持っている知識や経験を全部伝えたいと思えたんです。
村川:
野球教室を始めた当初は生徒が一人もいない日もありました。悩んで庵﨑さんに相談した際、「これまでの一部制から二部制にしてみては?」というアドバイスをいただきました。実践してみると、3,4か月経ったころには枠がすべて埋まるほどの反響がありました。
野球教室を始めたての頃は、「毎日同じことを教え続けるのはしんどいかも」と弱気になったこともありましたが、この出来事をきっかけに、野球教室に対してより前向きに取り組めるようになりました。

室内野球教室での様子(右:村川さん)
―村川さんの野球人生を振り返って今思う『成功と失敗』は何でしょうか?
村川:
僕にとっての『成功』は、大学3年生という比較的遅い段階でプロを目指すことを考え始めた僕が、必死の努力でプロ野球選手という夢を掴み取ったことそのものです。
正直引退直後は「もっとできたはずだ」という悔しさでいっぱいでした。ですがファンの方や周囲の方々から「プロの世界に入れただけでも、本当にすごいことだよ」と言葉をかけていただき、ようやく自分が歩んできた道のりが大きな成功だったのだと、客観的に受け入れられるようになりました。
一方で『失敗』だと感じているのは、プロになるため必死に努力していたあの頃のマインドを、入団後に持ち続けられなかったことです。もちろん一軍で結果を出すという強い気持ちはありましたが、どこかで「今の自分のままで通用するはずだ」という過信があったのかもしれません。
プロ野球選手になるという大きな目標を達成した後、次の目標に向かってそれまで以上の熱意と努力を維持できなかった。これが今の僕が思う最大の反省点ですね。
この成功と失敗は、今の指導者としての活動における道標になっています。
庵﨑:
アスリートだけでなく、誰しもが何かしら目標を持っていると思うんです。その目標を達成した後、次にどんな行動をとるか?というのは極めて重要なポイントです。達成した瞬間に終了ではなく、その先にさらなる目標を設定し続ける。その重要性を彼は20代の若さで、プロという過酷な世界を通じて学んだわけです。これは経営にも通じる、ものすごく価値のある経験ですよ。

―Na runnerのスローガン『走ることの先にある“誰かの幸せ”』には、どんな想いが込められているのでしょうか?
村川:
現役時代から変わらず僕の根底にある『誰かのために』という想いからです。実をいうと、引退直後の僕は悔しさでいっぱいで、16年間の野球人生を「幸せだった」とは到底思えませんでした。しかしファンの方や周囲の方々は僕に、「お疲れ様。走り続けてくれてありがとう。」と感謝の言葉を届けてくれたんです。僕が全力でプレーする姿を見て、みなさんが幸せを感じてくれていたのだとその時初めて気付かされ、僕自身も16年間を幸せだったと感じることができました。
今、野球教室で子どもたちの成長を本人や親御さんと一緒に喜んだり、引退選手のイベントを企画してファンの方々に直接恩返しができる場をつくっているのも、すべてはその延長線上にあります。
プロ野球選手として歩んできた経験、そしてこれまで多くの方に応援していただいた『村川凪』という名前に恥じないよう、その影響力を活かして、これからも誰かの幸せをつくっていきたいという想いが込められています。
庵﨑:
彼が今、心血を注いでいる野球教室。それは単に技術を教える場ではなく、『心の強い子』を育てる場だと私は捉えています。
野球が上達する過程は、決して楽なことばかりではありません。できないことに直面し、それでもできるようになるまで食らいつく。その繰り返しの中で、子どもたちの心は磨かれます。心が強い子は、将来どんな道に進んでも強い。私はそんな子どもたちがこの地域に一人でも多く育ってほしいと願っていますが、私自身が直接野球を教えることはできません。
ですが、彼ならそれができる。遊びたい盛りの若いうちから誘惑を断ち切り、ひたむきに努力し夢を叶えた彼を通してであれば、未来を担う子どもたちの心を育てることができるはずです。だからこそ私は彼を信頼し、ともに歩んでいきたいと考えています。

対談中のおふたり
ふたりが描くこれからの未来

―最後にお二人が目指すこれからのビジョンを教えてください。
村川:
僕はこの野球教室を『しっかりした子どもたちがいる教室』と思ってもらえるようにしたいと考えています。結果の出る野球の技術を教えるのはもちろん、人として強くなることも同時に教えていきたいです。
またプロ野球選手を遠い存在ではなく、目指せる目標として感じられる環境を作りたいです。僕自身が子どもの頃に欲しかった環境を、今の子どもたちに提供することが僕の使命だと思っています。
庵﨑:
未来を作るのはあくまでも子どもたちです。彼が野球を通して子どもたちの豊かな心を育み、そこにサンエーが企業として関わりながら、ともにより大きな価値を横須賀から循環させていきたいですね。
編集後記
対談中、庵﨑さんが村川さんの発言に対して、慈しむように「素晴らしい」と何度も頷かれていたのが非常に印象的でした。約30年にわたり経営の舵取りをしてきた先達が、次世代を担う若き挑戦者へ送るその言葉には、単なる称賛以上の深い期待と信頼が込められているように感じました。
一方の村川さんも、庵﨑さんの言葉を一言一句漏らさぬよう、全身で吸収しようとする姿が強く心に残っています。経営者としての多角的な視点やビジョンを、自分というフィルターを通して一つひとつ咀嚼し、形にしようとする。その真っ直ぐな眼差しからは、子どもたちの未来を真剣に、且つ心から愉しんで考えているように見えました。
村川さんは現在、野球教室のさらなる展開も構想中とのこと。庵﨑さんという力強い伴走者を得て、横須賀の地からどのような展開を見せてくれるのか。Na runner、そしてサンエーが共に描く未来の景色が、今から楽しみでなりません。